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普通に生きられればそれでいいのに、それができないあなたへ

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一人で頑張るあなたへ

前回、自分の声を届けたい人は、13~18歳くらいのお子様とそのご家族という話をしました。書いたあと、ふと思いました。

親になれなかった&普段、そのくらいの年齢の人と接することも全くない私が、その方々に自分の経験を活かしてほしい、言葉を届けたい、聞いてもらいたいというのは、無理があるということです。

始まる前から不安になって、何度も何度も考えて、やはり過去の自分のような人がいいなと思いました。

もちろん13~18歳も、何十年前の過去の自分が経験していることではありますが、あまりにも昔過ぎて、そのときの気持ちが曖昧です。そして私の親は、何が原因か?解明してくれるのは病院だと思って、通院するお金をだしてはくれましたが、根本的な原因を追究しようとはしていませんでした。

気が付いて、一緒に治すために努力してくれる親御さんの存在は有難いし、幸せなことだと思いますが、そうじゃない、一人で頑張らないといけない人を私は応援し、その方々が元気になるお手伝いをしたいです。

もっと具体的に言うと、原因が分からない体調不良があり、病院にずっと通っても病名はつかない、つまり病気ではないのに、普通に生きることが出来ない人です。そして自分で治さないと前に進めない、何もうまくいかないことに気付いて、もがいている人です。

多様性が浸透し、個性を重要視する現代において、「普通」とは何?ということですが、

  • 朝起きる
  • 学生のときは学校に行く
  • 働く(+労働力にあった給与で働く)
  • 友だちと遊ぶまたは人と適切な交流ができる
  • 休みの日は、寝る以外の自分の好きなことをする

こういうことができない人を私は「普通に生きられていない人」と定義します。

朝起きるができない

思い返すと幼少期からで、その状態は元気になるまで、長く続きました。夜更かしをしているわけではなく、21:00(学生の頃)22:00(社会人)とかかなり早い時間に寝ていても、疲れがとれず、朝起きるとぐったりで、「起きたくない」「また朝か…」「今日が来なければいいのに」と思っていました。

最近では、起立時にめまい、動悸、失神などが起きる自律神経の機能失調の起立性調節障害などの病気が知られていますが、そういう病名はつかないのに、起きようと思っても、起きられない状態です。

吾輩は猫である。名前はまだない。どこで生れたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。

学校に行くができない

近年では色々な理由があって「不登校」になってしまう子どもが増え、学校の代わりにフリースクールなどもあります。学校に行くことができないのが問題でもないし、珍しいことではないです。

私は完全なる不登校ではなかったですが、学校に行くのが苦痛で嫌々行くようなことはよくありました。仮病を使って休む、サボりも多かったです。学校に行けば行ったで、机に突っ伏して寝ている、授業中も寝ている、休み時間に同級生と関わることが億劫でした。

学校に行くだけでもツライのに、変な正義感で何かを引き受けてしまったり、押し付けられたこともあったと思いますが、何かの係とかになって、頑張らないといけず、それをやったがあまりに過労で、もっと学校に行きたくないが続きました。

働く(+労働力にあった給与で働く)ができない

今の時代、人手不足で、学校である程度の成績で卒業し、就職活動が出来た人は、それなりの会社に就職できるとは思います。

しかし、就職氷河期は優秀な人でも就職するのが難しかった1970年代から1980年代生まれの方は、正社員で仕事に見合う給与をもらえている方は意外と少なく、非正規で働き、転職しながらステップアップして人も多いです。ただこれが出来るのは元気な人だけで、仕事に見合わない給与をもらいながら、底辺生活を抜けることができない人も多いです。

そしてそれ以降に生まれた人なかには、選択肢が多い分、自分のやりたいこと探しで、色々なことにチャレンジしては継続できずに何も得られず、何者にもなれない人も多いです。

私は学校でも家でも勉強をする余裕もなかったので、成績も悲惨でしたが、就職活動ができるような体力がないので、面接だけで済むような会社ばかり応募していました。

今は小さな会社でも働きやすい会社はあり、労働に見合った給与をもらえる会社があることを知っていますが、当時、私が働いていた会社は全部、数か月に一人はやめてしまうような、常に人手不足が問題の会社でした。

人手が足りないので、一人で3人分働かないとダメな状態が通年で、有休が取れないだけでなく、トイレに行くのも難しい、昼休憩も10分で食べて、すぐに働くみたいな環境でした。

残業は当たり前で、休みの日は寝ているだけ、それ以上には何も出来ずぐったりで、しばらくすると、電池が切れたかのようにブチンと全く動けなくなる、燃え尽き症候群になり、仕事を辞めざるを得ない状態になりました。

辞めたあと、休みながら自分探しをする、そういうときに考える問いは下記のようなことでした。

  • 興味があることは何だろう?
  • 何だったら続けられるのだろう?
  • 自分が出来ることは何だろう?
  • 自分が出来ることで得られる仕事は何だろう?
  • 何で継続出来ないんだろう?

こういうことを考えながら、色々なことにチャレンジしようとしても、結局一つも長続きできないので、何の資格も取柄もないまま、年を重ねました。働いていないプレッシャーに勝てなかったり、お金がなくなると再就職する、それを繰り返し、気が付けば、20代の間に5回転職しました。その後、5年ほど全く働けない期間を経て再就職をし、今に至ります。

友だちと楽しく遊ぶまたは人と適切な交流ができない

働けないのであれば、結婚するという選択肢なかったの?と思う人もいるかもしれませんが、私は幼少期から、友だちと遊ぶほど体力がなく、人との関係が長く続くことはありませんでした。

友だちと遊ばなくても、一人で時間を過ごすことが大好きだし、実際に一人は楽しいです。友だちがいないと楽しめないよりも、一人でも楽しめるほうが、年を重ねたら有利で、私は「一人でも楽しい」は最高で最強の時間の過ごし方だと思っています。

ただ一人で過ごす時間が好きな人でも、人と一切関わらないで生きることはほぼないです。

家族、ご近所さん、学校に行けば同級生、社会人になったら同僚、習いごとをする余力があるような方は多分、普通に生活出来ていると思いますが、習い事をしていたら講座仲間など、そういう人たちと一切関わらないで、生きることは不可能だと思います。

求人広告で「一切、人とかかわりません」と掲載された求人に応募が殺到したというニュースを見たとき、そういう仕事もあることを知りましたが、殺到するということは、そういう仕事はほぼないということです。

人と関わると、気を遣いすぎて疲れる、人との距離感を見誤って、やたらとお願いごとをされて、深く関わり過ぎて、気づけばただの都合のいい人になってしまった、自分が普通に生きるだけで精一杯なのに、何で人のあれこれを手伝っているのか?少し役に立てればいいな…くらいだったのに、そんなことする必要あった?人と関わるたびに自己反省のループ…

人に都合よく使われているような人は、根底には人に嫌われたくないという気持ちが強いと言われることがありますが、私から言わせれば、距離感が近くてズカズカ入ってくる人は、断れないお願いの仕方をする人が多いように思います。

手伝っても感謝の言葉すらない、連絡の既読無視が当たり前、かなり失礼で問題がある、クレクレ星人やエナジーバンパイアを優先しすぎていることに気付いて人間不信?どちらかというと、二度と関わりたくない人に時間を使ってしまったことに対して自己嫌悪に陥り、「私はクレクレ星人ホイホイか!」そういう人しか周りにいないということに気付いたとき、断捨離のように人断ちしたら、一人も残りませんでした(笑)

しばらくすると、クレクレ星人やエナジーバンパイアではない人だっている、一緒にご飯を食べたり、話せるくらいの適切な距離感の友だちが欲しい症候群にかかり、矛盾するけれど、人との関わりを求めて…積極的に人と会うような場所に行って、また気を遣い過ぎて疲れる、これを繰り返していました。

休みの日は、寝る以外の自分の好きなことができない

人に嫌われるよりも好かれるほうがいいけれど、それよりも私のなかで強かった気持ちは、誰かの何かの役に立ちたい、人に喜んでもらえると、何も持っていない自分の存在が少し肯定できました。

でもその気持ちは、具合が悪くて生活するのでやっとの自分よりも、他者が常に優先され、自分は後回しになります。

不幸せではないけれど、幸せなのかよく分からない、自分の好きなものが曖昧で何をしているときが幸せなのか、自分自身のことが全く分かりませんでした。

自分の部屋でゴロゴロしたり、ぼーっとしているのが好きだけど、それは日常的に休まるときに必要なだけで、それがワクワクする時間にはなっていないことは分かっていました。

自分の人生=寿命=時間をどのように使うのか?好きなこと、夢中になれることが見つけられれば、何かが変わる!そう思っていました。

色々なことに挑戦しても、道具だけ揃えて終わったり、途中で金銭、時間、気持ちが続かずに、何かを続けたことがありませんでした。

続けられない、何も得られていない、何も持っていない自分は、人として何かが欠落しているのか?何のために存在しているのか?もがいても、答えはだせません。

人と比べても私は私でしかなく、誰かになりたいわけでもなく、普通になりたい、生きたいと思っていた私でさえ、同級生が結婚して子育てをしているとき、またはキャリアウーマンになって出張に行ったり、国内外を旅行して楽しんでいるとき、私はベッドでひたすら横になっているのが悔しく感じることもありました。

そして、「私は何で私はこういうふうにしか生きられないんだろう?私の普通はどこにあるんだろう?」と思い続けました。

自分の人生の大半の時間をベッドの上で横になり、ほとんど外に出られない状態で人生を終わるのか?最後は孤独死か…?それも仕方ないかもしれないと、精神的に一番ツラかったときは、すべてのことに絶望して追い詰められました。

まとめ

この普通に生きられていない状態だった私が変わりました。

一般的によく言われる考え方などのマインドセットなどで治ったとか、HSPとか繊細さんなどの性格的な傾向でも、愛着障害やアダルトチルドレンのような幼少期の親子の関わり方などの自己理解の方法を知って、前向きになったとかそういうのではありません。

私がお教えする内容は、たんに体質とか体質にあった食べ物だけでなく、情報社会の渦に巻き込まれずに、自分に合うもの選ぶ目安をつくり見極められるようになります。普通に生きられるようになるだけでなく、より豊かに生きられるようになります。

私はこれが分かったとき、これまで肌感覚で変だなとか、違和感があると感じたものを除外していたのは間違いではなかったけれど、感覚的におかしいとは思っているのに突き進んでしまって時間もお金も損失していたことのほうが多く、もっと早くにこういうことに気付けていたらよかったと思いました。

経験として全く意味のないことだとも言えないけれど、その時間とお金はもっと大事なことに使われるべきだったし、これからの先の人生においても、時間、お金、人との関わり方は、気持ちのいいものでありたいです。

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